歴史

専福寺は、親鸞聖人を開基とする浄興寺(真宗浄興寺派本山 新潟県上越市寺町)が現在の長野市長沼にあった頃、文明16年(1484)に浄興寺9世住職巧観の弟、了観が、本願寺8世蓮如上人(本願寺中興の祖)より阿弥陀如来のご本尊が与えられ、城主高梨氏の援護を受け、現在の中野市大熊に分寺したのを始まりとします。

この時代は蓮如上人が西厳寺(長野市大町)に滞在し、直線距離にして1kmの浄興寺(長野市津野)を訪ねてたびたびお金を借りに来ていて、その頃了観和尚は蓮如上人に帰依したものと考えられます。

大熊付近一帯を教化して寺院は栄えておりました。

参道200m、仁王門あり、と伝えられています。

その後突如として山崩れにあい、本堂伽藍もろとも土砂に埋まり、縁あって文禄元年(1592)に現在の中野市竹原に移転しました。

今でも跡地は寺屋敷と呼ばれています。

梵鐘も地中に埋まっているとも言われております。

時代は江戸幕府のキリシタン禁制の頃で、どこかの寺につかなければキリシタンとみなされる、ということで、門徒は近在の寺に散らばりました。

当時の総代だけ責任をもって、今でも延徳地区門徒として残っております。

なぜ竹原になったかということに諸説ありますが、大熊の門徒から「大熊から見える地に移転してほしい」という願いがあったようです。

また竹原は浄土真宗門徒の多い地区でありながら、寺が一つもないということから専福寺を呼びよせた、とも言われております。

境内地は、武田又兵衛の屋敷畑をもらい受けたといいます。

復興にあたっては、新潟から浄興寺の僧を武士を従えて後継者として招き、その武士は浄興寺の連絡役として飯山に移り住み、浄興寺の僧は専福寺中興開基として現在に至ります。

現在の秀晃住職は、平成元年に先代良秀(祖父)住職の亡き後、住職を拝命され、23代目となります。

宗旨は浄土真宗、宗派は大谷派、山号は大熊山、京都駅前の東本願寺を本山とします。(※浄土真宗も東本願寺も通称です。)